パチンコとの付き合いは50年です。

私のパチンコとの付き合いは学生時代にさかのぼります。
浪人したのちにさる大学に入学したころです。
中学生からの同級生からもうそろそろ大人になったのだからパチンコくらいやらなければと、町のパチンコ屋に連れて行かれました。
それまではパチンコ屋はあることは知っていましたが、特殊な人がやるものだと思っていました。
それで中に入ると音楽が大きな声でなっていました。
そこに台のコーナーが数台づつ並んでいるのです。
後で知ったのですが、それを島と言うのだと。
その頃はそこに立てかけられたパチンコの台の上の窓に球を入れるのだと。
そうすると球が数個出てくる仕組みになっているのだと、そこで打って玉の数と出てくる玉の数の差でだんだんと球が溜まるのだと。
そこで大事なのはくぎの位置だと。
上の穴のことを天と言うのだと。
そこの釘が平行になっていると、球が入りやすいのだと。
そのためそういう台を選んで遊ぶのだと。
その頃は私の街にも大学があって、昼間は大学生等が遊んでいました。
その頃は立ってやるので、体力がいりましたね。
私も最初は数千円をつぎ込んで遊ぶようになりました。
もうかると、タバコに替えてくれて、それを持っていると、そとにいるヤーさんの下っぱが現金に替えてくれたのです。
その頃は数千円の行ったり来たりでしたね。
まだまだギャンブルと言うには程遠い世界でした。
しかしその頃でもプロはいましたね。
彼等は朝から1日中やっていたのです。
その球さばきはまさにプロ級です。
左手でガバッと球を握り、左の親指で球を下の穴に入れて、右手ではじくのですが、いつも5個くらい球が台の中を回っていました。
これを見て私はすごいと思いました。

その後数年たち、やがて座ってやるようになりました。
私は大学の講義の休みの時に下北沢まで行って、パチンコをやりました。
パチンコのいいとこは一人でもできることです。
あるとき教室に入ると、数人の学生が、お前は下北沢のパチンコ屋にいただろうと。
それがきっかけで大学の友達になったのです。
その後もそれらの友人と付き合っていました。
パチンコが取りあってくれた縁です。
お互いの結婚式にも行きました。

その後にパチンコも発展して、液晶が出てきて、やがて「777」の登場です。
これにはびっくりしました。
何しろでると、すぐに球を入れる箱に一杯になるのです。
これをドル箱と言います。
私もあっちこっちでやりました。
このドル箱を積み上げて行くのに興奮を覚えました。
私は「海物語」という平和の機種が好きでしたね。
この機種は何回も新しい機能が加わって、新しいのが出ました。
この機種のシリーズは長いですね。

パチンコも何回も10数個のドル箱を積み上げたこともありました。
私は下戸だったので、会社の帰りには、会社のそばの駅前とか、乗換駅の新横浜駅と貨か私の家の駅前でやっていました。
これはその時の気分で替えていました。

その頃はパチンコ屋さんもまだまだ出してくれましたね。
球の交換も品物もありました。
そこで洋服やビジネスバッグや時計等も変えました。
中でも記憶に残っているのは、日曜日に行った隣町のパチンコ屋で取り替えた、子供用のすべり台です。
これは筆頭孫から3番目の孫まで遊んでいました。

パチンコもギャンブルですから、勝つことも負けることもあります。
まあ年間を通せば負けでしょう。
私はほかにたいした趣味もないので、ある程度は仕方がないと思いました。
パチンコ屋に入り、コーヒーを飲みながら、」一服して、それを目で追っていって、パチンコを打っているときが、私のストレス解消のときでした。
負けるともう2度とやらないと、帰宅の道をトボトボと歩いて帰りました。
カミさんは遅くなっても、私が飲まないので、またパチンコだろうと安心していました。

そのころですね。パチンコ依存症という言葉が出ていました。
駐車場に子供残してパチンコに熱中して、子供がなくなったことも話題になりました。
その頃は奥さんも熱中してやっていました。
その頃が花だったと思います。
その後はすこし下火になってきた感じです。
私の街でも1件が店をたたみました。
パチンコも近頃はそれ程流星で葉ないみたいです。
私ももう定年後数年たち、タバコもやめました。
そのためもうパチンコも卒業です。
今後はパチンコ屋さんもタバコの問題と、いかに楽しく遊ばせてくれるかにかかっていると思います。
そうしないと衰退していくと思います。
振り返ればパチンコは私の青春だっと思います。

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